法円坂は幕末まで武家の屋敷街となります。行政機関は、東長堀川までの間にほぼ集約されていますので端から端まででも徒歩20分といったところが最長の通勤時間です。多少の増減はあったようですが武士とその家族、家来衆をあわせると江戸時代を通し4000人ほどが大坂城周辺に暮らしていました。
玉造、森之宮は商人の町になり、伏見から呉服商を営む人が集団で引っ越ししてきます。そして呉服商人たちは、この町名が玉造伏見町、伏見錦町、伏見呉服町などと呼ばれ始めるほど活躍し、おもに城中のご用達を勤めます。大坂冬の陣、夏の陣では戦禍にみまわれますが、江戸時代にはいってからもなお、城中や諸大名蔵屋敷の呉服物のご用達を一手に引き受け、大変な権勢を誇りました。江戸時代も元禄になり、大坂がいよいよ商人の町として活況をみせはじめ、大坂の西地域が、新たに引かれた運河で利便性を増し、移転した諸藩の蔵屋敷や新町などの歓楽街で賑わい発展しはじめると、呉服商たちは幕府の許可を得て主に北船場界隈に集団移動してきます。これにともない中世より栄えた歓楽街も西地域あるいは坂町(道頓堀東側)に移転していきます。


▼伏見橋跡 石碑
▼越中井
伏見橋跡 石碑
越中井
   
越中井
 
細川越中守忠興のお屋敷があった場所です。関が原の戦で犠牲になった細川ガラシアを偲んで残された井戸とその碑があります。すぐ近くの教会には細川ガラシアと、クリスチャン武将として名高い高山右近の立像があります。
 
     
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