摂生となった聖徳太子は遣隋使を派遣し隋と対等な立場で交易を始めます。対等の立場をとるため隋にひけをとらない設備、施設、仏閣など様々なものが必要とされます。こうして仏教寺院の建設はその最盛期を迎えます。
大陸では隋が滅び、唐になってからも交易は順調に続き、難波津、住江津も活況をていしている645年、朝廷に大化の改新がおこります。ここで、政争、紛争の火が消え切らない飛鳥京から、難波長柄豊崎宮(なにわながとよさきのみや)に都を遷都され、前期難波京が誕生します。8年後には再び飛鳥に遷都されますが、上町台地の開発はとまりません。飛鳥時代はこの後も天災、疫病、失政などを理由に、近江大津、飛鳥、藤原と遷都され平城京の奈良時代を迎えます。難波宮には奈良時代にもういちど遷都(後期 難波京744年)されますがわずか1年で再び、平城京に遷都されます。
難波宮は奈良時代の終わりまでの約150年間、主に副都として政治、経済の重要地域として華々しく繁栄しました。
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