弥生時代、原生林は切り開かれ上町台地にも農地が広がります。日当たりがよく、水稲の栽培に適したところが人気の場所です。古墳時代になると難波津、そして墨江津の港としての整備も始まり上町台地は、海上輸送の玄関口としても利用されます。法円坂には高床式の倉庫が立ち並び他の地域との交流、交易も活発になってきた様子で、また様々な職業も生まれてきます。
玉造には勾玉(まがたま)製造集団の玉造部(たまつくりべ)が定住します。勾玉は、三日月型とも、胎児型、獣牙型ともいわれる翡翠(ひすい)、瑪瑙(めのう)などの宝石を加工して作る貴重なもので、神道の神事、祭事、古代の身分制度に深いつながりをもちます。硬い石を思いのままに加工する玉造部は、最新の加工技術をもった誇るべき職人集団としてある種の象徴になり、その名を玉作、または玉造という地名で日本各地に残しています。 |