明治維新は大阪を激しく揺さぶります。明治政府は造幣局と兵器工場を大阪城の廻りに配置し、大阪城本丸の地(旧大阪市立博物館)には第四師団司令部がおかれ、法円坂、馬場町(難波宮跡地、国立病院地)を歩兵第八連隊の駐留地とします。そして森之宮東側に城東練兵場(のち砲兵工廠に接収されます)、真田山には陸軍墓地と騎兵第四連隊の駐留地が造られます。大阪城周辺が陸軍の要塞になり、杉山も、田畑もなくなって町は豹変していきます。


鳥瞰図鳥瞰図鳥瞰図
 
鳥瞰図(明治末期)
大坂城周辺は軍事施設で埋め尽くされます。練兵場、京橋東側の三角型の地域も後に砲兵工廠になります。また現在、大阪市東部、東大阪市に中小企業の、特に精密加工を得意とする優れた工場が多いのは、この砲兵工廠で働いていた職人たちが大きく尽力していたという説もあります。
 
絵葉書/築港棧橋 絵葉書/築港棧橋 絵葉書/築港棧橋 絵葉書/築港棧橋 絵葉書/築港棧橋
絵葉書/難波橋 絵葉書/難波橋 絵葉書/難波橋 絵葉書/難波橋 絵葉書/難波橋
▲絵葉書/築港棧橋
▲絵葉書/難波橋
 
 
歩兵第八連隊の駐屯地跡
土曜日のお昼を知らせた大砲
▲難波宮より国立病院をのぞむ
(歩兵第八連隊の駐屯地跡)
▲土曜のお昼を知らせた大砲
大阪市立博物館
旧真田山陸軍墓地
▲大阪市立博物館
▲旧真田山陸軍墓地
旧真田山陸軍墓地
明治4年(1871年)、創設された旧陸軍墓地では最も古いものだそうです。
約1500uの敷地に5000をこえる墓標と約43000柱の遺骨が納骨堂に納められています。
 
大村益次郎記念碑
大村益次郎記念碑
 
▲大村益次郎記念碑
近代陸軍創設の父とよばれ適塾出身です。この記念碑を建立するために寄付された関西財界人の名前には圧倒されます。
 
大村益次郎記念碑
 
▲大村益次郎記念碑
 
     
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