“一生に一度はお伊勢参り”これが庶民の夢であり、やはり大旅行です。そこで浄瑠璃、歌舞伎などの芝居見物、信仰と観光をかねた観音三十三箇所、摂津八十八箇所霊場巡礼などが身近な娯楽として定着していきます。
玉造、森之宮、上町(法円坂西側)、真田山(玉造南側)、天満(大阪城北西)には数多くの有名、有力な寺院や神社があり、江戸期を通じ界隈は参拝者で賑わい続けています。
享保以後(1715年〜)になると大坂町人の間でひそかに語り伝えられていたある物語が、登場人物の名前、時代背景などを変え浄瑠璃や歌舞伎で演じられ大変な人気を博します。「鎌倉三代記」、「南蛮鉄後藤目貫」「日本賢女鑑」この他にも様々な名前で戯曲が書かれ長く、広く庶民に愛されます。このもととなるものが「難波戦記」といわれるもので真田幸村を中心にくりひろげられる物語です。当時、大阪町人の下地にあった”太閣びいき”が徳川方を苦しめた武将たちを英雄化し、表面上は実名を出さず、幕府を刺激しないように、しかしながら実に大胆に物語を演出し、現代までつなげてきました。そしてゆかりの地である真田山(冬の陣で、出城、真田丸が築かれた場所です)には様々なかたちで、その恩恵をもたらすことになります。
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